東京地方裁判所 平成7年(ワ)21298号 判決 1997年10月15日
原告
ゾルダン・ケイ・ジャサイ
右訴訟代理人弁護士
小林郁夫
被告
株式会社タケオ
右代表者代表取締役
後藤信夫
右訴訟代理人弁護士
南出行生
同
榎本孝芳
同
北澤龍也
主文
一 被告は、原告に対し、二億四〇一九万〇九九八円及びこれに対する平成九年四月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は被告の負担とする。
四 この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 原告の請求
一 第一次請求
被告は、原告に対し、二億四〇一九万〇九九八円及びこれに対する平成七年一一月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 第二次請求
被告は、原告に対し、二億一二三〇万七六七〇円及びこれに対する平成七年一一月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 第三次請求
被告は、原告に対し、二億一〇〇三万三七五六円及びこれに対する平成七年一一月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、被告(買主)との間でマンションの売買契約を締結した原告(売主)が、右売買契約中の特約に基づいてその売買代金額を変更したとして、被告に対して、変更後の価格と変更前の価格との差額及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を請求した事案である。
一 争いのない事実
1 本件売買契約の締結
原告は、昭和六一年一〇月一七日、被告との間で、原告所有の別紙物件目録記載のマンションの一室(敷地利用権及び共用部分に関する権利を含む。)を被告に対し代金三億円で売却する旨の契約(以下「本件売買契約」という。)を締結した。(以下、建物全体及びその敷地全体を併せて「本件マンション」といい、本件売買契約の目的物たる区分所有建物(敷地利用権及び共用部分に関する権利を含む。)を「二〇五号室」という。本件マンションの他の室についても同様に「○○号室」のようにいう。)
2 本件特約
本件売買契約中には、売買契約書第8条の2において、左記のとおりの価格調整条項(以下「本件特約」という。)が規定されている。
記
(一) 買主は、売主に対して、本件マンション(ただし、一階を除く)の売主からの購入価格(坪当たりの単価)中最高値を保証する。
(二) 買主は、本件マンションの区分所有権取得に関する全ての購入価格(坪単価)を売主に対して開示することに同意する。
(三) 売主は、前記開示された購入価格中の最高購入価格(坪単価)を選択して、本件売買価格を変更することができる。
(四) 買主は、売主の変更選択時より一か月以内に、本件売買契約中の売買価格との差額を売主に支払わなければならない。
3 原告の選択による価格変更権の行使
原告は、平成九年三月二七日送達の「請求の趣旨の変更申立書」と題する書面をもって、被告に対し、本件特約に基づいて、第一次的に六〇一号室の購入価格を、第二次的に二〇四号室の購入価格を、第三次的に五〇四号室の購入価格をそれぞれ選択する旨の意思表示をした。
二 争点
1 本件特約における「坪単価」の意味
2 消滅時効(抗弁)
3 事情変更の原則(抗弁)
三 争点1(本件特約における「坪単価」の意味)について
1 原告の主張
本件特約における「坪単価」とは、本件マンションの各室の購入価格をその専有床面積で割って求めた一坪当たりの価格を意味する。
そして、右の意味での坪単価が最高額となるのは六〇一号室(計算の便宜上平方メートル単価で表示すると、七七二万四七三九円)であり、その単価を本件売買契約の対象である二〇五号室の専有床面積に乗じると、五億四〇一九万〇九九八円となる。
よって、原告は、被告に対し、右価格と本件売買契約の変更前の価格三億円との差額及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
また、仮に六〇一号室の坪単価が右のとおりではない場合には、原告は、坪単価が最高額となる室として、二〇四号室(平方メートル単価七三二万六〇〇七円)を、さらに右の価格がそのとおりに認められない場合には、五〇四号室(同七二九万三四九〇円)を選択し、それを基礎とした二〇五号室の変更後の価格と変更前の価格との差額及び遅延損害金を第二次的及び第三次的に請求する。
2 被告の主張
本件特約における「坪単価」とは、本件マンションの各室の区分所有者の有する敷地についての所有権持分割合を敷地坪数に換算し、購入価格をこの敷地坪数で割って求めた一坪当たりの価格を意味する。
四 争点2(消滅時効)について
1 被告の主張
本件特約に記載された原告の売買価格変更権は商事債権であるところ、原告は、本件売買契約が締結された昭和六一年一〇月一七日から五年間が経過した日である平成三年一〇月一七日までに右権利を行使しなかった。
被告は、平成九年二月五日の本件口頭弁論期日において、原告に対し、右消滅時効を援用した。
2 原告の主張
消滅時効の起算点についての被告の主張は争う。
原告の売買価格変更権は本件マンション全室の購入価格の中から選択してこれを行使することができるところ、原告は本件マンション全室の買収が完了しなければ最高価格を選択できないのであるから、消滅時効は、全室の買収が完了した時点から進行する。
五 争点3(事情変更の原則)について
(被告の主張)
本件特約は、あくまで本件売買契約を締結した昭和六一年当時の経済的社会的状況下における最高価格水準を保証したものであり、その後のバブル経済とその崩壊による不動産価格の異常な高騰と暴落は、右時点では当事者にとって予見不可能なことであったし、当事者の責に帰すべき事由によるものではない。
本件売買契約の代金は当時としては妥当な水準の価格であり、現在ではそれよりはるかに不動産の価格水準が下落していることを考えれば、原告がバブル期の不動産価格高騰時の購入価格の水準に代金を変更して差額を請求できるとすることは、信義公平に著しく反する結果となるから、事情変更の原則により本件特約は失効したか、あるいはその効力範囲が大幅に制限されるというべきである。
第三 争点に対する判断
(証拠により認められる事実については、認定に供した主な証拠を略記して摘示する。また、書証を摘示する場合、成立に争いがないか、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められるときは、その旨の記載を省略する。)
一 本件売買契約締結の経緯について
本件の争点は、いずれも本件特約の趣旨をどのように理解するかに大きく依存している。そこで、まず、本件売買契約締結の経緯について検討する。
前記争いのない事実及び証拠によれば、以下の事実を認めることができる。
1 被告による本件マンションの買収交渉の着手(甲二・二〇、乙六、弁論の全趣旨)
被告は、昭和五九年ころ、旧商号の「株式会社帝国データバンク」(以下、後記の東京都中央区に本店を置いていた同名の会社と区別する趣旨で、「別帝国データ」ということがある。)の名で活動を行っていた。
そのころ、本件マンションは被告本社の敷地の隣地にあり、被告は、後記二5のとおり帝国データバンクグループというべき関連会社と一体となって、創立百周年の記念事業として、本件マンションの敷地と被告本社の敷地を併せた土地上に新しい(帝国データバンクグループとしての)本社社屋ビルを建築する計画を立てていた。
そのために、本件マンションの各室を全入居者から買取り、建物を取り壊して更地にすることが必要であったので、被告は、昭和五九年三月三〇日、その取締役会において、本件マンションの買収交渉を株式会社モトキ(以下「モトキ」という。)に依頼することを決定し、その後、モトキとの間で、不動産買収業務委託契約を締結した。
モトキでは、被告から買収交渉を一任されて、社長の木村一郎及び社員の花巻情(以下「花巻」という。)が担当者として本件マンションの各室の買取及び入居者立退の交渉にあたった。
2 本件売買契約の締結(甲一の一から三、甲二〇、弁論の全趣旨)
二〇五号室の所有者であった原告に対する買収交渉は、原告が外国人であったため、花巻が通訳を介して行った。
原告は、当初、花巻に対して、二〇五号室を売却する意思がないことを伝えたが、その後、本件マンションの各室の買収価格のうち最高価格のものと(単位面積当たりにして)同額(以下このような価格を「最高水準価格」という。)でならば買収に応じるという条件を提示した。花巻がこれに応じたので、原告は、昭和六一年一〇月一七日、被告の代理人であるモトキとの間で本件売買契約を締結した。そして、原告は、原告の経営する会社の顧問弁護士に契約書の案文の作成を依頼し、契約書の第8条において、当時二〇五号室の賃借人に対して提起していた建物明渡請求訴訟の今後の取扱いについての特約と本件特約を定めた。
二 本件マンションの各室の購入者(名)の異同と購入目的
ところで、本件マンションの他の室の購入者(名)と二〇五号室の購入者(名)には異同があるうえ、この点は本件特約の趣旨の理解に影響するので、次に、右の購入者(名)の異同について検討する。
証拠によれば、以下の事実を認めることができる。
1 被告の商号変更等(甲二から五)
(一) 被告は、昭和六二年八月一日、商号を「株式会社帝国データバンク(別帝国データ)」から「株式会社タケオ」に変更し、同月三日、その旨の登記をしたが、登記簿上の本店所在地は現在と同じ東京都港区南青山二丁目五番二〇号(以下「被告本店所在地」という。)のままで、変更されなかった。
(二) 一方、東京都中央区内に本店を置いていた「株式会社帝国データバンク」(昭和六二年七月一三日設立。被告の旧商号と同名であるが、被告とは別法人である。)は、被告が現商号に商号変更した昭和六二年八月一日、被告本店所在地にその本店を移転した(以下この会社を「旧帝国データ」という。)。
(三) また、被告本店所在地に本店を置いて旧帝国データと同じ昭和六二年七月一三日に設立した「株式会社ティーディービー・エンタープライズ」は、平成三年三月一日、同じく被告本店所在地に本店を置く「株式会社帝国建物」外一社を吸収合併して、商号を「株式会社帝国建物」に変更(同月一五日登記)し、さらに同七年一〇月一日、旧帝国データ及び「株式会社ワイ・アンド・エヌ」を吸収合併して商号を「株式会社帝国データバンク」に変更した(以下この会社を「現帝国データ」という。)。
2 二〇五号室の名義変更(甲四・六)
二〇五号室の区分所有権の登記名義は、昭和六一年一〇月二三日、原告から被告(当時の商号は「株式会社帝国データバンク(別帝国データ)」)に移転されたあと、平成三年三月一四日、登記名義人がいったん被告の現商号「株式会社タケオ」に変更されたうえで、売買を原因として「株式会社帝国建物」(これは、右1(三)で平成三年三月一日に現帝国データに吸収合併された方の会社であるが、売買を原因とする右所有権移転登記がなされた同月一四日の時点では商業登記簿上右合併の事実が未登記であったため、不動産登記簿上はこのような登記がなされたものと考えられる。)に移転され、さらに同月二六日、合併を原因として「株式会社帝国建物(現帝国データ)」に移転されている。
3 本件マンションの他室の買収(乙一二、弁論の全趣旨)
現帝国データ(当時の商号は「株式会社帝国建物」)は、平成三年四月一〇日、モトキを代理人として、株式会社ティエムシーから、本件マンションの六〇一号室(専有床面積58.49平方メートル)を代金四億五一八二万円で購入した。
また、被告は、平成七年五月八日、本件マンションの四〇三号室を代金二億三六〇五万円で購入した。
4 原告と旧帝国データとの間の交渉(甲一一、弁論の全趣旨)
原告は、平成七年四月二四日付で、旧帝国データに対して、本件特約の履行に関して話し合いをしたい旨の書簡を送った。これに対して、旧帝国データは、平成七年五月一〇日付で、原告に対して返信を送り、その中で「本件マンションの売買については交渉から契約に至るまで弊社の代理人であるモトキが行っていた。」旨述べた。
また、被告が原告に対して本件マンションの各室の購入価格を開示しなかったので、原告は、平成七年一〇月三一日、本件訴えを提起した。
5 まとめ
右1にみたような被告・旧帝国データ・現帝国データの商号変更・本店移転・合併等の経緯や右三社の商業登記簿謄本(甲二から四)にみられる会社の目的及び役員構成の共通性・同2のような二〇五号室の所有者名義人変更の経緯・同4のような旧帝国データの対応等に照らせば、被告・旧帝国データ・現帝国データはいわば「帝国データバンクグループ」として一体となって本件マンションの買収を進めていたものということができる。
三 本件特約の趣旨について
1 前記一1によれば、本件売買契約の締結に当たり、買主である被告は、代理人であるモトキにその交渉を一任しており、購入価格等を含めた契約内容の決定権もモトキにあったといことができる。他方、前記一2によれば、売主である原告の希望は、二〇五号室を最高水準価格で売却したいというものであり、こうした原告の希望がモトキに受け入れられた結果として、本件売買契約が成立したということができる。
このような事情を背景にすれば、本件特約は、二〇五号室の購入価格を暫定的に三億円としたうえで、将来において原告が右価格を最高水準価格に変更し、その差額を被告に請求することができるという内容を含んだものとみるべきである。売主に事後的な価格変更権を与えるこのような特約は、一般的にみられるものではないが、買主側(帝国データバンクグループ)が建物を取り壊して更地として利用する目的でマンション全体を買収しようとする場合に、買収に応じない区分所有者を説得する材料として魅力的なものであり、それなりに合理性のある条項であるということができる。
2 もっとも、最高水準価格での代金支払を保証するだけであれば、本件マンションの買収完了時に最高水準価格との差額を支払う旨を定めれば足りるところ、本件特約は、①被告による本件マンションの各室の購入価格の開示、②原告による最高水準価格の選択(価格変更権の行使)という段階を経て、具体的な差額の支払請求権が発生するという形式になっている。
この点は、被告が本件マンションの各室を買収する毎に被告から原告に対して遅滞なくその購入価格が開示されていることを前提に、原告は、被告による本件マンションの買収完了以前であっても、その時点での最高水準価格を選択して二〇五号室の購入価格を変更し、差額の支払を請求することができることとしたと解するのが合理的である。
なお、このように解したとしても、原告は本件マンションの買収完了以前に差額を請求できる代わりに、右の差額を請求した場合には、その後になってより高水準の価格で買収された物件が出てももはやその価格への再変更は選択できなくなるというリスクも同時に負うことになるから、原告にとって特段有利になるわけではない。また、本件特約が、差額の支払時期について、原告の選択と同時に履行期が到来することとしないで一か月間の猶予を措いているのも、原告が本件マンションの買収完了を待たずに差額を請求する場合があり得ることを前提として、被告に支払資金を用意する時間的余裕を与えたものとみることができる。
四 争点1(本件特約における「坪単価」の意味)について
1 本件売買契約の契約書(甲一の一)中には、本件特約における「坪単価」の意味について、明確な定義を与える条項は存在しない。したがって、本件売買契約締結当時の当事者の合理的意思を推認する必要があるが、その際、右契約書の表現内容を重要な手掛りとすべきである。
2 まず、右契約書の第1条(「売買価格及び支払い」と題する条項)において区分所有建物及び敷地権を一体的に取引の対象としていること、及び右契約書中には売買代金中の建物部分と敷地部分の内訳について触れた条項が存在しないことからすれば、「坪単価」を計算するときの分子にあたる「購入価格」は、区分所有建物及び敷地権の対価全体であって、区分所有建物の対価部分に限定されないのは明らかである。
3 また、右契約書中の「売買物件の表示」と題する部分には、二〇五号室の専有床面積が69.93平方メートルであることは明示されているが、敷地権については、敷地全体の地積が818.97平方メートルであること及び所有権持分の割合が三七〇〇分の七四であることしか記載されておらず、右持分割合を敷地面積に換算した数値(約16.38平方メートルになる。)は、契約書のどこにも記載されていない。
そうすると、「坪単価」を計算するときの分母にあたる「面積」は、区分所有建物の専有床面積を意味しているものと解釈するのが自然であって、かつ一般の取引通念にも合致する。被告が主張するような計算上の敷地面積(持分割合)を基準とする方法は、一般的なものとは言い難いから、特にそのような基準を用いるのであれば、契約書上にその旨明記されたはずであり、そのような記載がない以上、原被告間に計算上の敷地面積(持分割合)を基準として坪単価を算出する旨の合意があったとみることはできず、右判断は、被告が本件マンションを買収後建物を取り壊して更地として利用する予定であったことを考慮に入れても、それによって左右されないというべきである。
4 以上によれば、右2のとおりの「購入価格」を右3のとおりの「面積」で割って、単位面積当たりの価格(坪単価)を算出することになる。「購入価格」がその性質上区分所有建物と敷地権の対価の合計額であるのに対し、「面積」は直接には区分所有建物の専有床面積だけを示すものであるが、後者は敷地権の大きさをもある程度は示しているものと解することができるので、前者を後者をもって割ることにより、単位面積当たりの区分所有建物と敷地権の合計の対価を捉えることができる。
五 争点2(消滅時効)について
1 前記三によれば、本件特約は、被告による本件マンションの買収完了前に原告がその時点での最高水準価格を選択して差額を請求することを認めるものではあるが、買収完了まで待って最終的な最高水準価格による差額の請求をすることも当然許容されているとみるべきである。
そうだとすると、原告が特定の室の購入価格を選択して価格変更権を行使した場合にはその行使時点から、また本件マンションの買収が完了するまでの間に価格変更権を行使しなかった場合には買収完了時から、原告の差額請求権の消滅時効が進行するのであり、本件売買契約締結時を時効の起算点とする被告の主張は採用できない。
なるほど、前記一1の事実からすれば、被告は、本件マンションの買収交渉を比較的短期間(長くとも数年間)のうちに円滑に終了させることを予定していたとみることができるが、だからといって、それは消滅時効の起算点を本件売買契約締結時とする理由にはならない。被告が本件特約に長期間拘束されることを避けたいのであれば、本件売買契約締結時に本件特約に有効期限を設ける等の対応をすることは可能であったし、被告側がそのように配慮すれば足りたのである。
2 また、原告が最高水準価格を選択して差額を請求するためには、それまでの本件マンションの各室の購入価格が被告から原告に対して全て開示されていることが前提になるから、被告が本件訴訟の係属中に事実上の開示をするまで購入価格の開示に応じてこなかったこと(前記二4)に照らせば、少なくともそれまでは、原告の選択による価格変更権はこれを行使し得べき状態になかったのであり、時効は進行しないといわなければならない。
3 したがって、本件において消滅時効が未だ完成していないことは明らかである。
六 原告の第一次的な選択による価格変更の結果について
1 差額の計算
原告が第一次的に選択した六〇一号室についてみると、前記二3のとおり、購入価格は四億五一八二万円、専有床面積は58.49平方メートルであるから、一平方メートル当たりの単価は七七二万四七三九円(小数点以下四捨五入。なお、本来は「坪単価」であるが、便宜上「一平方メートル当たりの単価」で計算する。)となる。そこで、右単価により本件売買契約における変更後の価格を計算すると、二〇五号室の専有床面積が69.93平方メートルである(争いのない事実)から、これに七七二万四七三九円を乗じた五億四〇一九万〇九九八円(小数点以下四捨五入)が変更後の価格となり、当初の本件売買契約の売買代金三億円との差額は、二億四〇一九万〇九九八円になる。
2 被告の主張する「特殊事情」について
被告は、前記一2の原告が賃借人に対して提起していた二〇五号室の建物明渡請求訴訟を事実上引き継いで解決し、相当の費用を負担していることを主張するが、証拠(甲一の一、乙二・八から一〇)によれば、この点は、本件売買契約締結にあたって契約書第8条の1として定めた「訴訟の取扱い」の条項の履行いかんという問題に帰着するのであって、かつ被告の代理人であるモトキとの間で既に清算済みであることがうかがわれるから、右1で計算した差額の金額自体を左右するものとは認められない。
また、被告は、六〇一号室について、売主である株式会社ティエムシーが売渡後は会社を解散する予定になっていたため、同社から役員及び社員への退職金支払のために約四〇〇〇万円を上乗せしてくれれば契約するとの申出があり、これを受け入れて契約した旨を主張するが、買収交渉の過程では売主からいろいろな名目で代金値上げの要望が出るのはむしろ通常のことであり、最終的に売買価格を四億五一八二万円と定めた以上、右1の差額の計算上は右価格を基準とすべきである。
3 六〇一号室の買主について(補足説明)
なお、前記二3のとおり、六〇一号室の買主は現帝国データであるが、前記二5のとおり、被告及び現帝国データはいわば「帝国データバンクグループ」として一体となって本件マンションの買収を進めていたものということができるから、六〇一号室の買主が被告と別人格の法人であるというだけの形式的な理由によって、六〇一号室の購入価格が原告の選択の対象から外れるということはできない。
4 遅延損害金の起算日について
原告は、前記1の差額金支払の遅延損害金の起算日を、本件訴状送達の翌日である平成七年一一月二五日として請求している。
しかしながら、原告が六〇一号室の購入価格を具体的に選択して差額の支払を請求したのは平成九年三月二七日のことである(記録上明らかな事実)から、本件特約に従えば、差額金の支払期限はその一か月後である同年四月二七日になり、遅延損害金はその翌日から発生すると考えるべきである。
これについては、原告の選択による価格の変更が遅れたのは被告が適切な時期に購入価格の開示をしてこなかったことに原因があるということができるから、その点で遅延損害金の起算点をより早い時期に求めるのが当事者間の公平に資するという考え方もあるかもしれない。しかし、被告の購入価格の開示の遅れについて別途の責任がないかどうかは別として、本件特約に基づく本件請求は、具体的な購入価格を選択して初めて発生するものである以上、その遅延損害金については、前記のように解するのが妥当である。
七 争点3(事情変更の原則)について
1 被告は、本件売買契約締結後、いわゆるバブル経済とその崩壊による不動産価格の異常な高騰と暴落があったから、原告がバブル期の高騰時の価格を選択し、バブル崩壊後の現在において差額を請求することは著しく信義公平に反する結果となると主張する。
2 証拠(乙一・五)によれば、東京圏の公示地価は、本件売買契約が締結された昭和六一年当時からみて、六〇一号室が買収された平成三年までの間に平均して約2.7倍に上昇し、原告が差額の支払を請求した平成九年には約1.1倍まで下落して、ほぼ昭和六一年当時の水準に戻っているということができる。
右のような不動産価格の変動は確かに大幅なものであり、見方によっては異常な価格変動であるということもできる。
3 しかしながら、以下のような点についても同時に考慮すべきである。
(一) 被告は、本件マンションを買収して建物を取り壊し、更地にして自社グループの本社ビルを建設するという計画のもとでこれを実行してきたのであり、前記二3のとおり、平成七年になってもなお買収を続けているのであるから、右計画は基本的に変更されることなく継続しているものといわなければならない。仮に事情変更の原則の適用により原告が差額の請求をすることができないとすれば、被告がその計画を完成して所期の自社ビルを建設できる一方で、原告は本件売却の意思のなかった二〇五号室を、最高水準価格との差額を支払ってもらえるものと期待して買収に応じたにもかかわらず、期待はずれの結果を甘受しなければならなくなる。
(二) また、仮に本件特約がなければ、原告が昭和六一年という早期に被告の買収に応じていないため、被告は、バブルの絶頂期に六〇一号室と同等かそれ以上の価格水準でなければ原告から二〇五号室を買収できなかったという可能性もないではない。もちろん、原告がどの時点で買収に応じるかを仮定的に議論することには限界があり、より安値で買収に応じざるを得なくなっていたという可能性も同時に存在するが、仮に事情変更の原則の適用により原告が差額の請求をすることができないとすれば、少なくとも原告はより有利な時期に買収に応じるという機会を奪われたことになる。
(三) 昭和六一年以降の不動産価格の激変は確かに被告に責に帰すべき事由のない事情であるが、原告が本件特約に基づいた選択及び差額の請求を長期にわたって行わなかったのは、被告による本件マンションの買収交渉が長期化したこと及び被告が本件マンションの各室の購入価格を開示してこなかったことに少なくともその一因がある。特に、被告が特約に従って本件マンションの各室の購入価格を開示しなかったために、原告は本件訴えを提起することを余儀なくされたのである。事情変更の原則の適用の可否を判断するにあたっては、被告のこのような態度を当然考慮に入れなければならない。
4 以上のような諸要素も併せて総合考慮すれば、結局、本件特約の有効性を認めて原告の被告に対する差額の請求を認めることは、著しく信義公平に反し事情変更の原則を適用しない違法があるという結果とはならないというべきである。
八 結論
以上によれば、原告の本訴請求は、被告に対して二億四〇一九万〇九九八円及びこれに対する平成九年四月二八日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条但し書きを、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官岡光民雄 裁判官庄司芳男 裁判官杉浦正典)
別紙<省略>